HISTORY歴史

ニュースポーツとしてのドラゴンボート

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「ドラゴンボール?」いや「ドラゴンボートです」。このように日本においては今少し認知度が低いかもしれませんが、アジア、ヨーロッパを含む全世界では「ニュー・スポーツ」として目覚ましい勢いで普及しているのが「ドラゴンボート競技」です。平井肇氏によると、「ニュー・スポーツ」とは「考案されたのが比較的新しいスポーツ、外国での歴史は古いが発祥国以外では比較的新しいスポーツ、起源は古いが競技として整備されたのが比較的新しいスポーツ」と定義出来るようですが、まさにこの定義通りの発展途上にあるスポーツです。日本に於いては「一般社団法人・日本ドラゴンボート協会」を統括組織として60以上のチームが加盟し、日本国内で多くの大会を開催・普及活動にも力を注いでいます。

ドラゴンボートの起源は諸説あるものの、最も一般的に受け入れられているのがはるか紀元前278年に遡る「屈原説」です。中国の戦国時代、楚の国の政治家であった屈原は、政策を巡り国内の政敵の策略により国を追われ、湖南省の泪羅(べきら)の淵に石を抱いて抗議の入水をしてしまう。これを知った近くの漁民達は屈原が淵に潜む竜や魚に襲われないよう、竹筒に蒸した米を詰めて水中に投げ込み、又ドラや太鼓を打ち鳴らして探し回ったという。以来、屈原が入水した旧暦5月5日の端午節にその霊を祭る小舟レースが各地で行われるようになり、日本の端午の節句や、「ちまき」の起源もこの伝説に由来するといいます。

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これら伝統的な舟漕ぎ競争は、1976年に香港で開催された「香港国際龍舟祭」をきっかけに「ドラゴンボート」と名称を統一して国際的スポーツに変化しました。ルール並びにボート、パドル等の競技用ツールスペックの世界共通基準を設定、わずか20数年の間に世界各国・地域ドラゴンボート協会、アジア連盟、ヨーロッパ連盟等の大陸別連盟、そしてこれらの統括団体としての世界ドラゴンボート連盟を組織し、オリンピック競技化を目指すまでに発展しました。2024年3月現在で、世界ドラゴンボート連盟に加盟する国・地域は約100カ国、となり、IOCによる承認への前提である世界スポーツ連盟連合(GAISF改名してSportsAccord)への加盟も承認されました。大陸別国際大会、世界大会等毎年世界各地で開催され、又各国協会が主催する大会へも海外チームを招待するなど、活発な交流が進んでいます。A.グットマンは、現代スポーツの特徴は「世俗化」「競争の機会と条件の平等化」「役割の専門化」「合理化」「官僚的組織化」「数量化」「記録万能主義」であると述べていますが、振り返ってみるとドラゴンボート競技の普及も一部はこの理論に沿って発展していると思われます。

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ドラゴンボート競技の魅力であり普及してきた大きな要因は、女性や身障者を含み、誰でも容易に楽しめる典型的な「ソフト・スポーツ」という面と現代スポーツの特徴である真剣勝負的要素も確保していることであると思われます。それに加えて20名の漕ぎ手全員が力とタイミングを合わせる必要があること、水上スポーツという性格上特に安全上の注意が必要なこと、チーム全員で勝利を目指すという協力姿勢が必要なこと、さらに言葉はわからなくてもドラゴンボートレースを通じて世界の若者が交流を図る機会があること等、世界の教育関係者がドラゴンボート競技を最良の青少年教育ツール、そして企業においてもチームビルディングの最適な手段と位置付けていることが挙げられます。

更に、ドラゴンボート競技大会は既設の河川や池、そして海など、水がある場所であればどこでも開催することが可能です。そのような意味でも、環境に最も優しいスポーツであり、市民が水に親しめると共に、水質環境を数十センチという身近さで感じることが出来る、まさにSDGsスポーツの代表と言えるのではないでしょうか。国籍を問わずドラゴンボート関係者が抱えている課題は他のスポーツの例にもれず大会運営財政問題です。中国や東南アジアの国々のようにナショナルスポーツとして国が大会・組織運営資金など賄っている例もありますが、多くの国・地域では運営費用の捻出に頭を痛めています。又、オリンピック競技化に向けては調整しなくてはならない他競技国際連盟との微妙な関係もあります。しかし、これらの課題を一歩ずつ解決しながら、ドラゴンボート人口は増加の一途を辿っています。

現代社会は情報化社会であり、メンバー国間の情報伝達もインターネットを通じて瞬間的に行われるようになり、世界への伝播の在り方も従来とは大きく変化してきました。それだけに組織運営の透明性と公平性がより強く求められることになります。日本ドラゴンボート協会としては、これらの点を念頭に置き、ドラゴンボート競技の普及を通じて国内・国際的な地域活性化と交流、更には青少年教育の一助になるべく尽力したいと考えております。

ドラゴンボートの起源

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ドラゴンボート(龍舟)とは、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕であると言われています。古代中国の春秋戦国時代、楚の国に屈原(くつげん)という詩人であり政治家がおりました。
屈原は秦の謀略から国を守るべく努力しましたが、自国内の権力抗争に敗れ国を追放されてしまいました。その結果、楚の国は秦に支配されてしまいます。国の将来を憂いた屈原は、湖南省の汨羅(べきら)の淵に石を抱いて入水自殺をしました。これを知った近くの漁民たちは、屈原の身を案じ、淵に潜む竜や魚に襲われないようにドラや太鼓を打ち鳴らして探し回りました。以来、屈原が入水した旧暦5月5日にその霊を祭る為の小舟レース大会が各地で行われるようになったといいます。時は紀元前278年だったとか。
又、汨羅の淵に入水した屈原の身を案じた漁民達が、「ちまき」で竜や魚の気を引いて屈原の身を守ろうとしたという説もあり、5月5日の命日にはちまきを食べるようになったとも言われています。

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その後、この竜舟は、中国国内は勿論、東南アジア地域など、広い地域で盛んに競漕が行われるようになり、2,000年以上の年月を経て中国から世界へとドラゴンボートは広がっていきました。日本へ伝えられたのは長崎が最初で、今から約350年前の1655年に中国福建省の竜舟文化が伝えられたといわれています。長崎に停泊していた唐の船の乗組員が、冬から春までの出港待ちの間に、ハシケといわれた小舟で競漕するのを市中の人たちが真似をし始め、やがて、雨乞いや水神信仰などの農耕儀礼と重なり、近郊の農漁村へと広まってきました。

長崎では竜舟競漕をペーロンといいます。これは、爬はペー、竜はロン、舟はジェと発音されたことに由来するようです。その後ジェが落ち、ペーロンが定着したものと思われます。

沖縄のハーリーは、約600年前に汪応祖ワン・オウ・ソ(豊見城城主、第二代南山王)が初めてハーリー舟を伝え、龍舟競渡(球陽)と呼んでいたようです。沖縄で「ハーリー」と呼ぶのは後に「那覇爬龍」が盛んになってからだと思われます。また、兵庫県相生市の相生ペーロンは長崎生まれの造船所の工員達が大正時代に持ち込んで、今では市を代表するイベントになっています。

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これら伝統的な竜舟競漕がイベントから競技に変わったのは、1976年に香港で開催された香港国際龍舟祭。これをきっかけにして、欧州選手権大会などが生まれ、日本でも1988年、大阪で日本国際龍舟選手権大会が誕生。急速にドラゴンボート人気が高まりました。今では、日本各県にドラゴンボート協会が設立され、大阪で「天神祭り奉納・日本選手権大会」、東京ではお台場、それに海の森水上競技場(Sea Forest Waterway)で「東京大会」、琵琶湖競艇場で「琵琶湖スモールボート選手権大会」、さらに関西空港(KIX)の第一・第二滑走路間の水路を利用した「KIX International Race」等、多くの大会が開催されるようになり、競技人口も増加の一途を辿っています。このように世界統一規格としてスポーツ競技化されたドラゴンボートは、ヨーロッパ連盟、アジア連盟、北米連盟などの大陸別連盟に発展し、世界ドラゴンボート連盟(IDBF)加盟国は100カ国近くに拡大しています。

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世界各国、各地で世界選手権大会が開催されていて、アジア圏ではアジアオリンピック評議会(Olympic Council of Asia)主催のアジア競技大会でも正式種目の一つとしてドラゴンボート競技が開催されるようになりました。世界ドラゴンボート連盟では目下、IOC加盟に向けて尽力しているところです。